先週加工した木札製作のひとこま。


これが木札の材料。


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傾斜盤で指定の寸法に加工。


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2色刷りの印刷をして終了。



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文章にすると簡単そうだが、特に傾斜盤の工程では、自分の手の数cm横を鋸の刃が回転しているので危険を伴う。

塔婆以上に神経をつかうし、気が抜けない。


ここからは仕事以外の話。
下世話と思う人もいるかも知れないが、私は数ヶ月前から競馬をやり始めた。
無論、小遣いの範囲内でたしなむ程度だ。


20代の一時期、友人達と競馬の予想で競ったり、一緒に競馬場に行った経験がある。
楽しい思い出の一つである。
今回も週末の楽しみの一つとして、あわよくば小遣い稼ぎにでもなればいいや、そんな軽い気持ちで競馬を再開した。



再開してから2週間後、3連複で万馬券が当たった。
その後も万馬券とまではいかないが、比較的高配当の馬券を当てた。

嗚呼、何て楽しいんでしょう。


しかし、翌月この状況が一変した。
あるレースでの話。全く予想だにしなかった馬が、ゴール前でトコトコ1位になり、私の予想は見事に覆された。


『あの馬、余計な事しやがって!』


今思えば、余計な事という観念は、私個人の勝手なものであり、馬は一生懸命走ったに過ぎない。
そもそも、競馬予想は過去のレースのデータ等、様々な要素を考慮して、これから先の未来の結果を予想するという、極めて不確実なものであり、予想が外れたとしても当然と言えば当然なのである。


しかし、その時の私は完全に自分を見失っていた。
反応で生きている典型的なケースである。


ああいう予想外の馬が来ても、しっかり的中できるような予想法を考案しよう。
凝り性の自分の性格が仇となり、ネットで競馬予想法をくまなく調べ、全部いいとこどりの味噌糞一緒の予想法を作り出した。


そして迎えた週末。意気揚々と馬券を購入。
結果は散々だった。
こんなはずはない。
私は更に研究を重ね、より素晴らしい予想法がないものかと模索し続けた。


そして、目の前にはかつての自分の予想スタイルは一切垣間見えず、1レース予想するのに1時間以上掛かるという、複雑怪奇な予想法が完成していた。


翌週も翌々週も全く当たらない。
あんなに待ち遠しかった週末が、いつしか重々しいものに変わってしまった。
ここまでいくと、当初の気軽さは消滅し、ただの苦行と化した。


絶対に負けない戦をしようと、ありとあらゆる武器、防具を身につけて、いざ出陣したものの、重くて身動きが取れずに敵に易々と首をかっ切られる、そんな滑稽な侍を私は演じていたのだ。


綺麗だと思った絵の具を手当たり次第に重ね塗った私の作品は、どぶ色の醜い絵画だった。


それでは御覧頂こう。へっぽこ侍の爪痕、どぶ色の醜い絵画の様子を。


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私は現実を受け入れた。
何事もシンプルが望ましい。
予想している最中のワクワク感、勝っても負けても、競馬の出来る喜び。
もう一度初心を思い出した。

予想法も極めてシンプルに。
勝ち負けに拘らず、純粋にその時間を楽しむ。

それで良かったのだ。


そして、昨日の中山11レース、スプリンターズSに挑んだ。
当日、家族で出掛ける予定があったこともあり、朝一ネットで馬券を購入し、競馬の事はすっかり忘れて家族で余暇を楽しんだ。
結果は3連複の予想が的中。
私の今月の小遣いが増えた。(おごってくれ等のタカリ行為は一切お断りします。)


わかっている人はいちいち反応に振り回されない。
世界の物事を全て取り入れようとしない。
ちゃんと選んで不要なものは『不要だ』と相手にしない事が出来る。
それが自由に生きてるってことだ。
正面から向き合うから、ちゃんと取捨選択が出来る。


何かで読んだ一説だが、競馬で反応に振り回されて悶々として、一周回ってようやく言わんとしている意味が分かった。


ちなみに今週は東京競馬場で毎日王冠が開催される。
気楽に予想するだけである。




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